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明治大学友の会特別講演20242024年06月02日 22:38

明治大学友の会特別講演2024(めいじだいがくとくべつこうえん)は令和6年6月1日に開催された石川日出志文学部教授による特別講演である。

概要(講演要旨)

  • タイトル:「弥生時代を見直す-70歳の視点」
  • 講師:石川日出志(明治大学文学部教授)
  • 開催日:2024年6月1日(土)
  • 会場:明治大学アカデミーコモン 308F教室
  • 要旨 来年3月で定年退官される石川日出志教授による弥生時代研究の3つの視点に関する講演である。いずれ出版される可能性もあることから、論証の各論点を逐語的に詳しく要約することはせず、ここでは石川教授講演における3つの論点の主要ポイントを示す。 ただし逐語録的メモはとっていないので、誤りがあれば筆者の責任である。

問題意識

明治時代に作られた学説・定説がその後の考古学的事実の発見にも関わらず、見直しがされていない場合が多い。学説・定説をしっかり再検討することが必要である。

「東日本弥生文化特質論」を批判する(論点1)

どの地域も歴史学的には等価であるとの認識が出発点である。東日本だけに固有の弥生文化は存在しない。 設楽博己は弥生時代文化の三段階発展説を唱える。

  1. 縄文系弥生文化
  2. 環濠集落と低地開発
  3. 鉄器の普及、首長墓の形成

各地の文化的伝統は縄文時代から弥生時代へと連綿と続いている。その証拠に縄文文化由来の伝統は九州から東北まで全体に認めることができる。 例として九州に見られる「頸部・腹部の突帯」は縄文時代からの伝統と指摘できる。また環濠集落と首長墓の形成は果たして大陸系弥生文化といえるのであろうか。

「銅鐸近畿形成説」を批判する(論点2)

弥生時代を代表するといわれる銅鐸は近畿圏で形成されたかどうかは疑問がある。高倉は1982年に「銅鐸九州形成説」を唱えたが、佐原真により潰されてしまった。佐原は「銅鐸近畿形成説」を自明と見ていたが、考古学的な発見を銅鐸の形成過程を近畿圏だけで考えるのでは無く、形式学による綿密な考察が必要である。菱環紐式銅鐸の形成要素は3つある。

  1. (1)断面菱形の紐、
  2. (2)横帯文、
  3. (3)大型化

(1)と(2)は畿内で形成されたものではなく九州の祖型が見いだされる。(3)は九州から伝搬後に畿内で発展したと見られる。 今後の方向性として、朝鮮半島(韓半島)の青銅器文化の日本列島での受容の過程を形式学の観点から体系的に考察すべきである。

「邪馬台国所在地論争から「東アジアの中の倭国」論へ」」(論点3)

邪馬台国所在地だけに労力を集めるのは得策ではない。 『魏志倭人伝』の情報の精度を見極めるべきである。

  1. 信頼性高い・・・詔書と外交記事
  2. 信頼性中度・・・帯方郡使の直接見聞
  3. 信頼性不明・・・伝聞情報(現地の地理交通情報を含む)

北部九州では奴国・伊都国の発掘で、『漢書』『後漢書』も遣使記事と対応する。 伊都国では発掘により「一大率」の津が見えてきた。伊都国と奴国とではどちらが優位か。 中国史学者で早稲田大学教授の渡邊義浩は「如刺使」の記事だけで女王国は九州以外と断定できるとしている。頷ける意見である。弥生時代の階層化から古墳時代における階級的序列への転換には中国文化の影響(西嶋定生(1961))があるのではないか。 邪馬台国所在地論争はもはや不毛である。初期倭国の考古学を議論新しなければならない。

考察(当ブログ筆者による)

「東日本弥生文化特質論」は北九州から東日本へと文化が伝搬したという考え方であるが、山内清男といえども弥生文化は「大陸系の文化要素」、「縄文系の文化要素」、「固有の要素」の3つから成り立つと論じている。「大陸系の文化要素」は論じられているが、弥生時代の縄文系の要素は深くは論じられていないようにみえる。東日本だけに縄文文化の伝統が残るとは言い切れないのではないか。ちょうど明治の文化に江戸文化が色濃く残るように、弥生文化にも縄文時代の文化的伝統は残っているに違いない。 邪馬台国所在地論争より重要な問題がある。そろそろ所在地論争を横に置き、草創期倭国の国の統治体制の形成過程と内部構造を議論する必要がある。 いつも通り全体として説得力があり、興味深い講演であった。

参考文献

  1. 設楽博己(2017)『弥生文化形成論』 塙書房
  2. 設楽博己(1959)「縄文系弥生文化の構想」『考古学研究』47(1)
  3. 高島洋彰(1982)「朝鮮小銅鐸から銅鐸へ」『月刊考古学ジャーナル』210
  4. 小林行雄(1959)『古墳の話』岩波書店
  5. 渡邉 義浩(2012)『魏志倭人伝の謎を解く』中央公論新社
  6. 西嶋定生(1961)『古墳と大和政権』『岡山史学』10
  7. 石川日出志(2010)『農耕社会の成立』岩波書店
  8. 石川日出志(2022)「弥生時代を見直す-70歳の視点」講演レジュメ

多紐式文鏡2024年06月01日 10:11

多紐式文鏡(たちゅうしきもんきょう)は円形の銅鏡で鏡背に中心を外れて2または3の紐がつくものである。

概要

中国の遼寧省・吉林省、朝鮮半島の青銅器文化に特徴的な銅鏡である。鏡面は緩やかな凹面であり、縁は断面蒲鉾形であり、内側全面に幾何学文(鋸歯文)を配す。 文様線の太さにより細文鏡と粗文鏡に分類される。 梅原、後藤守一は細文が先行し、粗文は模倣鏡とした。その後、遼寧省出土の粗文鏡と銅剣の共伴、横城講林里の細文鏡と細形銅剣の共伴、銅剣の編年観により粗文鏡から細文鏡に移行することが判明した。宇野は単位文様という新たな概念を提唱した。宮里(2001)は鏡を5段階に分け、1段階、2段階で多鈕粗文鏡、3段階で多鈕細文鏡が現れるとした。 鋸歯文の精粗により多鈕粗文鏡は石型、多鈕細文鏡は土型で製作された。技術的な進化が見られる。中国鏡は姿見のようとであるが、日本では呪具、祭祀に使われた。

日本

日本ではこれまでに福岡・佐賀・長崎・山口・大阪・奈良・長野の10遺跡11面の出土例がある。1913年、山口県梶栗浜で発見されたのが最初である。 須玖タカウタ遺跡で20185年5月、国内最古の多鈕細文鏡の鋳型が出土した。国内最古の青銅鏡鋳型であり、国内の青銅鏡生産の開始時期が2000~150年さかのぼった。多鈕鏡は国内に最初に流入した青銅鏡で、従来、朝鮮半島製とされていたが、今回の出土で国内での生産された可能性が高い。

考察

出土

  • 双鈕細線鋸歯文鏡 - 奈良県御所市名柄出土、弥生時代・前4~前1世紀 東京国立博物館
    • 大正7年(1918年)、溜池工事で偶然に発見された

参考文献

  1. 杜超(2020)「中国東北部から出土した多鈕鏡について」岩手大学平泉文化研究センター年報 8、pp.31-46
  2. 宮里修(2001)「多鈕粗文鏡について」史觀 (144), 65-84
  3. 「須玖タカウタ遺跡:国内最古の青銅鏡鋳型」毎日新聞、2015年05月27日 20時38分

多摩ニュータウン遺跡2024年05月31日 08:28

No57遺跡/復元住居

多摩ニュータウン遺跡(たまにゅうたうんいせき)は東京都多摩市・町田市・稲城市、八王子市の4都市にまたがる多摩丘陵の多摩ニュータウン地域内にある旧石器時代から古墳時代、奈良時代にかけての遺跡群の総称である。

概要

多摩丘陵では、全部で964ヶ所の遺跡が見つかっている。多摩ニュータウン遺跡はそれらの総称である。各遺跡にはNo1からNo964までの番号が付られている。 多摩丘陵に人が住み始めたのは約32000年前の旧石器時代であった。多摩ニュータウン地 域は東側に多摩川に、西側に境川にはさまれた、北側には大栗川、中央に乞田川が流れ、南側には三沢川などが流れる。964ヶ所の遺跡は、河川沿いの緩かな斜面や段丘面、谷部などに分布する。

No57遺跡

縄文時代前期前半(約6500年前)と中期(約5000年前)の時期の集落遺跡である。縄文時代前期前半の竪穴住居跡が2軒、中期後半の竪穴住居跡が8軒、縄文時代早期の陥し穴が 検出された。

  • 所在地:多摩市落合1-14-2 都立遺跡庭園内
  • 交通:京王相模原線・小田急多摩線ほか「多摩センター」駅下車徒歩約5分
  • 時代:縄文時代

No.342遺跡

須恵器窯で、7世紀後半につくられたと考えられる窯跡群で最古の窯跡である。窯は1基のみであり、山の斜面を掘った地下式の窖窯である。つくられた製品は、坏・蓋・椀・高坏・すり鉢・長頸瓶・平瓶・フラスコ形瓶・短頸壷・盤・甕など多種多様な須恵器があり、陶硯も検出された。

  • 所在地:東京都町田市小山ヶ丘四丁目
  • 時代:古墳時代

No.916・917・918遺跡

1991~1992年に発掘調査され、前期の竪穴住居跡62軒、方形周溝墓2基、掘立柱建物跡4棟、水場遺構1箇所などが発見された。水場遺構からは?、器台、高坏、小型壷、装飾壷、甕、鍋、台付甕、壺、高坏、坩等など多くの容器が出土した。水場遺構から続く沼状の湿地から一木鋤の未製品(長さ1.2m)が見つかった。

  • 所在地:東京都町田市小山ヶ丘二丁目・三丁目
  • 時代:古墳時代

No.920遺跡*

1994~1995年の多摩ニュータウン事業に伴って発掘調査された。中期後半の遺構と後期の住居1軒が発見された。後期の住居内から後期後葉の東海地方系の久ヶ原式土器と中部地方系の朝光寺原式が出土した。住居内には貯蔵穴と想定される土坑があり、土器は土坑とその周辺からみつかった。台付甕形土器、甕形土器(朝光寺原式)などがある。

  • 所在地:東京都町田市小山ヶ丘五丁目
  • 時代:弥生時代

No.938・939遺跡

1988~1993年の多摩ニュータウン事業に伴って発掘調査され、中期後半の住居跡8軒、方形周溝墓1基、土坑8基が発見された。方形周溝墓は、中期後半宮ノ台式期の特徴である大型で周溝の四隅が切れる形状となる。遺跡からは甕形土器(宮ノ台式、高さ28.1cm)、台付甕形土器(台部分欠損・中部高地系、高さ20.5cm)、黒曜石製勾玉(最大長3.8cm)などが出土した。

  • 所在地:東京都町田市小山ヶ丘三丁目
  • 時代:弥生時代

No.949遺跡

1991年、多摩ニュータウン事業に伴って発掘調査され、後期の粘土採掘坑が発見された。粘土を掘り出すのに使用した木製の鋤、掘棒(突棒)、未加工の自然木が出土した。藁(わら)状の繊維製品が束あるいは敷物状に広がったものや、粘土を採掘した人が履いていたと考えられる“わらじ”3点がみつかった。土器を作るための粘土を探しているうちに足を取られたのであろうか。スコップ状の木製採取具、土器とともに発見された。 わらじは日本最古のわらじである。わらじのかかとに近い後ろ半分の両端に緒を通すための直系1cmの輪が2つずつ付く。

  • 所在地:東京都町田市小山ヶ丘五丁目
  • 時代:古墳時代

指定

  • 東京都指定 史跡

展示

  • 東京都埋蔵文化財センター

アクセス等

  • 名称:多摩ニュータウン遺跡

参考文献

  1. 江上波夫(1993)『日本古代史辞典』大和書房
  2. 大塚初重(1982)『古墳辞典』東京堂
  3. 文化庁(1995)『発掘された日本列島』朝日新聞社

西求女塚古墳2024年05月30日 08:05

西求女塚古墳(にしもとめづかこふん)は兵庫県神戸市にある古墳時代のの前方後方墳である。

概要

兵庫県の南東、六甲山系と大阪湾に挟まれた標高6mの扇状地に立地している。当初この古墳は全長約90mの前方後円墳と考えられていた。 現在の古墳の形も前方後円形であるが、発掘調査の第7次調査で後方部とくびれ部を検出し、前方後方形であることが確認された。3世紀に作られたこの古墳は古代の海岸線から200m内陸に入ったところにある。前方後方墳はヤマト政権の支配下にはなかった有力豪族の古墳が多い。古墳の土地は私有地であったが、神戸市が買いあげ、遺跡公園「求女塚西公園」となった。

調査

平成4年度からの発掘調査で三角縁神獣鏡をはじめ、多くの銅鏡が出土し、一躍注目された。墳長100級の古墳時代前期では最大クラスの古墳である。墳丘に葺石がある。 後方部中央に作られた埋葬施設は慶長大地震(1596年)により、原型を保てないほど損傷した。それでも竪穴式石室の内法は長さ5m、幅約85cmであることが判明した。墓穴の底に厚く敷いた礫を置き、粘土で棺床を作り、周囲に板石を積み上げる。石室内部は板石で仕切って主室と副室とに分ける特殊な構造であることが判明した。石室に使われた石材は、兵庫県内、四国、和歌山から調達している。銅鏡は三角縁神獣鏡7面、半肉獣帯鏡2面、画文帯環状乳神獣鏡2面、神人龍虎画像鏡1面の12面である。三角縁神獣鏡のうち2面は布に包まれていた。鼓型器台は祭祀に使われ、山陰地方に特有の形式である。

規模

  • 形状 前方後方墳
  • 築成 後円部:3段
  • 墳長 110m以上
  • 後方部  
  • 前方部 - 幅110m以上

遺構

  • 室・槨 竪穴式石槨

外表施設

  • 葺石 あり

遺物

  • 中国鏡 (撹乱土中から出土)
    • 2号鏡 三角縁吾作四神四獣鏡
    • 3号鏡 三角縁吾作三神五獣鏡
    • 5号鏡 三角縁陳是作五神四獣鏡
    • 6号鏡 画文帯環状乳神獣鏡
    • 7号鏡 神人龍虎画象鏡
  • 土師器 - 山陰系の小形丸底壺・
  • 鼓型器台
  • 二重口縁壺(布留式併行、攪乱土中から出土、埋葬施設に伴う可能性)
  • 碧玉製紡錘草形石製
  • 小型丸底壺
  • 鉄製品 230点

築造時期

3世紀中頃の築造と考えられている。

考察

3世紀中頃の古墳築造で、中国鏡が多数出土し、かつ三角縁神獣鏡が複数面出土したことから、規模と位置の点はあるが、邪馬台国時代の古墳といえる。卑弥呼が鏡をあちこちに配ったとすれば、一部は魏から貰った鏡かもしれないと想像をかき立てる。

指定

  • 2005年(平成17年)3月2日 国史跡に指定
  • 2005年(平成17年)6月9日 出土品は国の重要文化財指定

展示

  • 神戸市埋蔵文化財センター

アクセス等

  • 名称:西求女塚古墳
  • 所在地:兵庫県神戸市灘区都通3丁目1-17
  • 交通:阪神電鉄 西灘駅 徒歩2分

参考文献

  1. 江上波夫(1993)『日本古代史辞典』大和書房
  2. 大塚初重(1982)『古墳辞典』東京堂
  3. 神戸市教育委員会(1995)『西求女塚古墳』第5次・第7次発掘調査概報
  4. 文化庁(1995)『発掘された日本列島』朝日新聞社

2024年05月29日 07:45

(もり、harpoon)は海や川の魚や海獣を突き刺して捕る道具である。

概要

手に持ったまま突き刺す突き銛と投げて使う投げ銛がある。単に銛という場合は、後者をいう。前者はヤスという。 銛は、銛頭、柄、縄からなる。

使用された時代

日本では縄文時代から使われている。縄文人が漁で使った道具は網と釣り針と銛であった。 銛には固定銛(銛頭が柄に固定されている)と離れ銛(銛頭が柄から離れ、魚などの体内に残る)とがある。離れ銛では魚や海獣に当たると柄から銛が離れ、縄をたぐり寄せて獲物を捕獲する。千葉県館山市の稲原貝塚から縄文時代早期のイルカの骨に突き刺さった状態で出土した黒曜石の銛状の石器が出土している。 縄文時代の銛は骨角器製が多い。九州北部の弥生後期からは鉄製の銛が現れる。

出土例

  • 銛 有珠モシリ遺跡、縄文時代終末期
    • 恵山文化の代表的な猟りの道具で、オットセイやイルカを捕ったと想定される。
  • 銛 朝日遺跡、愛知県清須市、縄文時代中期
  • 米原市磯出土骨製銛 - 米原市磯地区、縄文時代
    • 米原市磯出土の銛は、根元に三角形の突出部を作り出しており、この部分を柄に差し込んで、樹皮を巻きつけて固定した
  • 離頭銛 - 北上町泉沢貝塚、縄文時代

参考文献

版築2024年05月28日 00:17

版築(はんちく、rammed earth)は土や砂をつき固める古代から続く土木技術である。「ばんちく」ともいう。

概要

土台とする場所に板枠を組み、その中に土を入れて突き固め、突棒という重くて細長い棒でつき固める。その作業を繰り返し、層を重ねて作る。土の層が見えることが版築工法の特徴である。砂と粘土など性質の異なる土層を交互に突き固める工法である。

伝来

版築は古代中国で発明され、6世紀の終わり頃に日本に伝わった。「始皇帝陵」「万里の長城」は版築技法が使われる。版築は城壁や建築物の基壇、土塀の構築などに用いる。版築層の各層厚さは約10cmから15cmであった。周囲の自然堆積土に細かい石と砂が混在する。中国では版築に向いている粒子の細かい黄土が手に入りやすいため、多くの建造物に利用された。 「法隆寺」の築地塀も版築である。阿房宮基壇遺跡の版築の1層の厚さは、8~10cmである。 奈良時代の基壇も版築で作られる。高松塚古墳では版築は下位に向かって硬度を増すが、下位版築は特に硬く搗き固められており、地耐力調査により、上位版築の倍近い強度をもつことが判明している。下位版築の調査で層理面に凝灰岩の粉末が堆積する作業面が5面検出された。

語義

「版」は木の板で造られる枠であり、「築」は杵を意味する。枠と杵は版築の主要な道具である。

工法

土を握って形が残るくらいの水分で施工され、体積が半分くらいになるまで突き固める。

  1. 版築を作る場所を決め、両側を板などで囲み枠を作る。
  2. 板で挟まれた間に土・砂利・(にがり)・石灰を入れる。
  3. たたき棒や“たこ”と呼ばれる道具で、入れた土を硬く突き固める。
  4. 乾いたら枠(外板)を外す。

出土例

  • 版築層 - 牽牛子塚古墳(7世紀)、大規模な版築・
  • 版築 – キトラ古墳
    • 墳丘は版築によって築成されており、版築を築くための直径10cmの杭と4~5cmの厚みの幕板の痕跡がある。
    • 2種類の土を交互に突き固めて作った厚さ5~10センチの層が幾重も重ねられており、高さ約4メートル、幅約1・4メートルである。

参考文献

  1. 鬼塚克忠,陸江,唐暁武,甲斐大祐(2002)「中国における古代の版築技術について」
  2. 「奈良・明日香村 牽牛子塚古墳で強固な墳丘の基礎「版築層」確認」産経新聞、2016年2月13日
  3. 鬼塚克忠・陸江他(2002)「中国における古代の版築技術について」
  4. 松村恵司、廣瀬覚(2007)「高松塚古墳の調査-第147次」奈文研紀要2007、pp.102-104

三内丸山遺跡2024年05月28日 00:03

'三内丸山遺跡''(さんないまるやまいせき, Sannai Maruyama Ruins)は青森県にある縄文時代前期から中期にかけての集落跡である。「北海道・北東北の縄文遺跡群」として世界遺産登録されている。

概要

丘陵の先端部、沖館川沿岸の標高約20mの海岸段丘上に立地する。 5500年前から4000年前までの1500年間に渡り営まれた縄文時代の村の跡である。 遺跡には竪穴建物、掘立柱建物、列状に並んだ土坑墓、埋設土器、盛土、貯蔵穴、道路、大型建物などが計画的に配置されている。3層の掘立柱建物が復元される。

発掘調査

1952年(昭和27年)県文化財専門委員の成田彦栄による調査をはじめ、慶応大学の清水潤三等の調査がある。 長い間湿った土の中にあったため、通常は腐朽するものが良い状態で残った。 縄文時代前期から中期に至る円筒土器(円筒下層式5型式・円筒上層式5型式)、大木系土器・石器・石製品(硬玉製垂飾品・黒曜石製品等)、縫い針、ヘアピン、牙製のペンダント、土製品(板状土偶・耳飾等)、骨角器(釣針・針・銛先等)、樹皮・イ草科の草で編まれたポシェットや各種の編物、木製の舟の櫓、漆を塗った容器、木製品(櫂・掘り棒等)のほか、魚類・鳥類・哺乳類骨、栗の木を利用した杭・柱等の木材、木の実の種が多量に出土している。

遺構

  • 環状配石墓3
  • 配石2
  • 土坑
  • 道路1
  • 埋設土器7
  • 掘立柱建物
  • 竪穴建物
  • 柱穴14
  • 焼土1
  • 包含層
  • 環状配石墓
  • 配石
  • 屋外炉

出土品

  • 第6鉄塔地区出土
  • 石器・石製品 911点
  • 骨角牙貝製品 406点
  • 木製品 2点
  • 編物 4点
  • 縄文土器・
  • 土製品
  • 石器・石製品 247点
  • 土器・-土製品
    • 深鉢形土器 369点
    • 浅鉢形土器 7点
    • 壺形土器 1点
    • 土偶 11点
  • 骨角牙貝製品
    • 針 133点
    • 錘 22点
    • 刺突具 85点
    • 釣針 24点
    • 銛頭 2点
    • 箆 4点
    • ナイフ形牙製品 4点
    • ハンマー 1点
    • 装身具 27点
    • 針入れ 3点
    • 骨刀残欠 3点
    • 未製品等 101点
  • 石器・石製品
    • 石鏃 134点
    • 石槍 45点
    • 石匙 530点
    • 石錐 83点
    • 石箆 17点
    • 削器 101点
    • 製石斧 13点
    • 敲磨器類 13点
    • 石錘 2点
    • 石皿・台石類 10点
    • 砥石 15点
    • 擦切具 8点
    • 半円状扁平打製石器 14点
    • 抉入扁平磨製石器 1点 石
    • 棒 6点
    • 石冠 1点
    • 異形石器 22点
    • 装飾品 6点
  • 木製品
    • 皿残欠
    • 鉢残欠
  • 編物
    • 編籠 1点
    • 編物残欠 1点
  • 骨刀
  • 漆膜
  • 人骨
  • 動物遺存体(動物(骨)+魚(骨))

指定

  • 1997年(平成9年)3月5日 史跡 指定
  • 2000年(平成12年)11月24日 特別史跡
  • 2014年(平成26年)3月18日 特別史跡(追加)
  • 2021年7月27日 - 三内丸山遺跡(青森市)など17の遺跡で構成される「北海道・北東北の縄文遺跡群」が世界遺産登録される。

アクセス等

  • 名称:三内丸山遺跡-遺跡面積:約35万m2
  • 所在地:〒038-0031  青森県青森市大字三内字丸山305
  • 交通:東北道青森ICよりR7環状バイパス経由、三内丸山遺跡方面へ5分

参考文献

  1. 青森市教育委員会(1988)『青森市の埋蔵文化財:三内丸山Ⅰ遺跡発掘調査報告書』青森市教育委員会
  2. 青森県教育委員会(2017)『三内丸山遺跡44 総括報告書』青森県埋蔵文化財調査報告書第588集
  3. 文化庁(1995)『発掘された日本列島'96』朝日新聞社